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自分語りをしながら松野カラ松の自分的解釈を解説してみる

アニメ「おそ松さん」今すごい勢いですよね。おそ松くんを元に腐女子層にウケようという発想が凄いし、この企画が通ったのも凄いし、本当に成功しているのも物凄くて凄いしか言えないです。

かく言う私も釣られたクチで、5話のカラ松事変が話題っていうか騒ぎになったのをきっかけに見始めました。最初は腐女子に闇をチラ見せして釣ってくるブラックジョークアニメだなーというノリで見てたのですが、7話のスタバァ、8話の和みのおそ松あたりからすっかり深読み考察に走るようになってしまいました。「ギャグアニメでシリアス妄想wwwww」とか言ってた過去の自分に今のこのザマを見せたらどう思うんでしょうか。まあ過去の自分が今の地雷とかその逆とか、今を生きるオタクには良くあることです。

さて、アニメおそ松さん、ウケてるだけあってキャラの作り方が凄く細かく深読みしようと思えばいくらでも深読みできてしまうのですが、私のTLでちょくちょく聞くのが「カラ松がよくわからない」という意見です。カラ松はカッコつけでナルシストで超絶イタくて馬鹿で、しかし他兄弟に比べ分かりやすくクズいことはあまりしなくどちらかといえば優しい、けど皆にスルーされ続けるという不憫ポジションという感じのキャラなんですが、全体的に何も考えてないように見えるんですね。カラ松事変でボッコボコにされエスパーニャンコでハブられても次の話では戻ってる。一松にグラサン壊されようがクソ松呼ばわりされようが何の反応もしない。でも本当は辛かったりするのかな?と思いきやEDのSIX SAME FACESで「責任はないし自立もしない、最後まで実家から離れないぜぇ?」だの「働かない我が人生、C'est la vie!」だのと将来のことについて全く心配してない底抜けな明るい馬鹿っぷりを披露している。更にトッティにイタいと言われ続けたのを肉体的な痛さと勘違い・・・本当に成人男性なんでしょうか?いや一話完結ギャグアニメのなんだからそんなもんでしょ、という感じもしますし私も最初はそう思ってたのですが、彼らわりと過去の出来事を掘り返しますし、見ていると一松やトッティなんかはちょくちょく過去の出来事に影響され変化しているのが感じられるんですよね(これ説明するのは面倒なので省きますが)それにいくら何でも一松の露骨な嫌がらせに全く無反応というのは不自然です。本当は辛いけど一切表に出さずに耐えているのか、実は一松のことが大好きだから何されても平気なのか、カラ松には一松の姿が見えていないのか・・・色々考えようがありますがどれもピンと来なくて、確かにちょっと理解できない気がします。

けれど私は、何となくカラ松の考えている事というか、行動原理が分かる気がするんです。というか見ていて「あ、小中学生時代の私とめっちゃ似ている・・・」とか思ってしまったのです。当時の私は色々と周囲から浮きまくっててもっと酷かったし全体的には全く違うのですが、「他人の間接的な嫌がらせに鈍感」だとか「将来のことに余りに楽観的」とか「自分が周りから浮いてることに気付いていない」という点のみそっくりなんです。そして私は自己分析する機会が多かったので、そういった鈍感さのメカニズムはそれなりに解説できます。

というわけで、ちょっと自分の過去を振り返りながら自分的カラ松解釈を解説してみようと思います。なので自分語りが頻繁に入るのでそういうの嫌いな方は見ないでくださいね。それとあくまで個人的な解釈なので誤解なきよう。

 

 

前提として、カラ松は周りを見ていません。

人は周囲を観察して色々な情報を得て、そして何となく常識を得ます。自分にはない感性や情報を知るのです。

対してカラ松はちゃんと周りを見ていれば明らかに恥ずかしいと分かるクソタンクトップやら何やらを平然と着こなし、自分に言われた「イタい」の意味を痛いと勘違いしています。更にいえば、秀でた何かを持っているならともかくあのスペックでナルシストをしているのも周りが見えていない証拠ですよね。中学生くらいまでならたまに居るタイプですが、あのまま成人男性になってしまったのは奇跡です。

中学生までの私もカラ松のように周りが見えていませんでした。それも恐らくカラ松以上に病的に。そして、極端に周囲を観察する力が無いとナルシストになる以外にも様々な弊害があります。

その一つが「他人の悪意に極端に鈍感」なことです。

 

子供の頃の私は嫌われたり嫌がらせを受けたりすることが多かったのですが、その中で中一のころ、席を立っている隙に筆箱に泥を入れられたことがあります。当然、私はそれに怒ろうとしました。

しかし彼女たちは笑っていました。笑っているということは悪意は無くただの冗談であると私は判断して怒りは収まり、しかし筆箱に泥を入れられると困るということを伝えましたが彼女たちは止めなかったので、面倒ですが筆箱を席に放置せず持ち歩くことで解決しました。

他にもその時期はえんぴつを折られたり体育の時に砂を後ろからかけられたりしていましたが彼らはみな楽しそうだったので冗談だと思いました。他のクラスの人にそれを目撃され「〇〇ちゃん虐められてるよね!?」と言われましたが「ただの冗談だから気にしないで」と笑って終わらせました。――私が「いや、あれ普通に虐めだったな」と気付いたのはその4年後、高2になってからです。

この感覚、ちょっとカラ松っぽくないでしょうか?いえ、絡んでる側の動機は違いますし、カラ松は更に相手に何も言っていないのですが、思考回路としては似ているのではないかと私はアニメを見ていて勝手に感じました。

何も私は優しかったから嫌がらせを許したのではありません。殴るなどの暴力、分かり易い悪口などには私はむしろ普通の人より流すことが出来ず直接抗議して謝罪を聞くまで追求しましたし、ショックも受けました。カラ松もカラ松事変の時はかなりショックを受けていましたし、おそ松に川に落とされた時は殴っています。では何で私はこんな反応をしたのか。これにはいくつか理由があるので順番に解説していきます。

 

・人の裏表を知らない

 

私は当時、「人間は時に思ってもいないことを言ったり、逆に口に出さないことを思っていたりする」ということを知りませんでした。私自身も考えてる事と違う事は言わず、それどころか都合の悪いことを秘密にする事すら出来ませんでした。なので「直接言ってこない」ことはつまり私にとって「悪意が無い」のと同じことだったんです。

この性質も根本的な原因は周りを見れていないことだと言えると思います。もし、ちゃんと周囲を観察していれば笑顔で接していた人が相手が居なくなった途端に毒づく姿なんかを山ほど見るはずですが、周囲を観察していないと価値観が幼児のままでストップするのです。

カラ松もアニメを見る限りでは、良く言えばとても素直、悪く言えば鈍感で馬鹿な性格をしています。そして周りを見ていない。

だからカラ松は、自分に無い思考回路をして自分に無い行動パターンを取る人間を全く理解出来ないのです。一松の行動なんてカラ松が一番理解できないものでしょう。これは推測ですが、例えばグラサンを壊された時は「良く分からないけど楽しそうだし遊んでるだけなのかな」とか思ってそうだし、クソ松呼ばわりの時はそもそも悪口だと判断できなかったりしたのだと思います。痛いとイタいを区別できない男ですし、あり得ないことではないと思います。私も中2になるまでわりと言われていたキモいとウザいが悪口であることを知りませんでしたし・・・

 

しかし、それにしても自分に害を与えてくる相手が悪意によるものではないと100%信じられるものなのだろうかと疑問に思う方も居るかと思いますが、流石に何の疑いも湧かないということはないと思います。けれど、そんな疑いや迷いを、どんなに無理があっても問答無用で封殺するほどの言葉があるのです。

 

・この世に“居る”のは良い子だけ

 

私は小6の時、上履きに画鋲を入れられました。

こんな時、普通ならどう思うか。上履きに画鋲を入れる嫌がらせの目的は、単に画鋲を足に刺す為というよりは悪意の表明です。それをされた人は想像力を働かせ「こんなことをする位に私を嫌いな人がどこかに居るんだ、誰なんだろう、怖い」と思うわけですね。普通は。

しかしわたしは先程言った通り悪意に鈍かったのでそんなことは全く思わず、

 

上履きに画鋲が入っている事に気づく

→足に刺さらなかったことに安心しつつ、どこから落ちてきたんだろうと下駄箱の周囲を調べる

→自然に入るのは物理的に無理っぽいので人の手で入れられたんだなと理解する

-終了-

 

という感じの反応で終わりました。そして母親に「今日学校であった面白い事」のノリで報告し、虐めだと狼狽える母に「おおげさだなーわざとじゃないかもしれないじゃん」と的外れにも程がある事を言って更に頭を抱えさせたとか・・・

 

このパターンも先程と全く同じように「悪意に鈍い」証拠ですが、少し違う部分があります。それは当時の私は小説やドラマなどから、上履きに画鋲を入れるというのは虐めのテンプレートであることを知っていたのです。知っていたので画鋲が人の手で入れらてた事に気付いた時に「本で呼んだのとおなじだ!」と興奮して、驚いてほしくてわざわざ職員室に行って担任に報告したら大した反応が返ってこなくて不満だったのをよく覚えています。それなのに、虐めじゃないと母親に言うのは矛盾していますよね?

しかしそれを矛盾なく繋げる呪文があります。それが「この世に居るのは良い子だけ」です。

 

小説やドラマの世界は「この世」ではなくフィクションの世界です。だからどんな悪人が居てどんな悲惨な虐めがあっても平気です。しかし「この世」、というか私の身近には良い子しか居ないんです。だってそんな人、見たことないし、見たことないということは居ないということです。だから靴に画鋲が入っていたら、悪い人が居る小説の世界では虐めですが私の周りにそんな人は居ないので虐めではないのです。終わり。

・・・何でこんな無理のある理屈が当時の私の中でまかり通っていたのか。それは何度も言っているように周りが見えていないから悪い人が見えないから、しかも直接言われないと悪意が伝わらないから・・・そして「面倒くさいから」です。

人を疑うのは疲れることです。まず相手の性格を考え、相手と自分の過去のやり取りを見直し、分析しなければなりません。そんなことしたって絶対に正しい答えが返ってくるわけではないし、誰かが自分に悪意を持っているかもしれないと悩んだって暗い気持ちになるだけです。そんなことをするくらいなら「みんな良い人だからそんなことしない」で思考停止して、好きな事だけを考えて居たいと思うのは自然な事じゃないですか!

・・・まあ普通は「考えたくなくても考えてしまう」ので、そんな事にはならないのですが。ただ身近な人のことを疑いそうになったときに根拠がなくとも「いやそんなことは無い筈だ」と、身近な人を疑うのが辛いという感情から思考停止したことって割とあるんじゃないでしょうか。かつての私とまで極端でなくとも、そういった楽な方に逃げる気持ち自体は誰でも持っていると思いますし、全くない人というのは非常に生きてて辛いような気がします。

 

話が逸れました。カラ松の中にも、「この世に居るのは良い子だけ」という価値観は存在すると私は思っています。いえ、大した根拠は無いのですが、EDのあまりに楽観的な歌詞から少なくとも「現実は厳しい」ということから分かっていて目を逸らしているというよりは本気で分かっていないように感じられます。現実は甘い。一生自立しないで就職しなくても生きていける。そして誰かに養ってもらう気満々。そんな歌詞と先ほど言った一松に対する反応を考えると、「自分の周りに自分を嫌いな人間なんていない」という価値観が透けて見えるような気がしてくるのです。少なくとも自分の周りにいる人間は善人だけだから、女の子がこっちを見ているということは自分の格好良さにときめいているということだし、一松がグラサンを破壊してもただの冗談。たまに(割と頻繁に)そんな価値観と矛盾することが起こっても例外と切り捨てて流せばいいんです。だって面倒だから。

これがあると嫌な気持ちにさせるものに目を瞑れるのでとってもストレスフリーです。カラ松は不憫ポジションですが、これのお陰で心のほうはあまり傷付いてはいないと思われます。カラ松事変のように分かりやすくボコボコにされてハブられた時はかなり応えたでしょうが。

ただここまで極端だと弊害も色々あります。「悪意なんてあるわけない」のノリなので直接叩きつけられる悪意には非常に弱いですし、そして分かると思いますが何でも言葉通りに受け取ってしまうので物凄く騙されやすいです。

(・・・これを書いてる途中に15話を見たのですが、思いっきり騙されてしまってましたね。ただナルシストだからこそ例えドブスでも好意を投げた相手には必死に応えるカラ松を少し見直しました。)

 

ちょっと余談ですが、2話でカラ松は一松に「俺は信じてるぜ」と言葉をかけますね。あれは嘘でも欺瞞でもなんでもなく、カラ松は間違いなく一松を信じていると思うのです。そして一松だけでなく兄弟みんな信じてるし、自分の周りの人間は大体信じているんです。しかし「自分なんてどうせクズ」で自分を保っている一松にとってカラ松のその思想から出た「信じてるぜ」は非常に苛立つことだろうと思います。だってクズである自分の存在を全否定しているのと同じことですから。本来の歌詞である「この世に“要る”のは良い子だけ」の方が一松にとってはずっとマシなんですね。

 

 

・そんなに何も考えてないカラ松は、じゃあ何を考えているのか

 

カラ松は周りを見て自分を見直すこともせず、面倒なことからは基本目を瞑るからトッティのように直接言い続けてくれる人が居ないと悩むこともない。じゃあ普段何を考えて生きているんでしょうか?

といっても流石に私はカラ松じゃないですし、アニメからの情報も少ないので答えは分かりません。なので今まで以上に完全に私の経験則からの推測になってしまいますが、割とこれを疑問に思っている人が多かったので考えて見ます。

 

小学生~中学生までの当時の私も周りからは何も考えていないと思われていましたが、知識欲は旺盛でした。そして勉強自体はむしろ出来る方だったので知識をガンガン吸収しましたし本を読むのも好きでした。なので歴史、理科などをメインに色々と読み、他にも哲学とか、社会問題だとかについても考えていました。

特に社会問題は、小学生の浅知恵ですが割と考えて悩んでいた気がします。自分の上履きに入れられた画鋲については悩まないのに・・・とか思ってしまいますが、上履きの画鋲と社会問題の違いは、「自分と遠く離れている事柄だからどんなに考えても現実には影響しないので気楽に向き合え、何かしらの答えを出してもそれに対する責任も発生しない、なおかつ考えるとちょっと頭がよくなった気分になる」ことです。この「ちょっと頭が良くなった気分になる」のが重要です。当時の私も大概ナルシストだったので、小学生なのに難しい問題を考えられる自分に酔いたかったのです。

ただし私の場合、自分が世界で一番頭がいいとおもっていた為に知識を得るたびに大人たちに知識自慢をしました。ここまでならまだ無害なのですが、マズかったのが「これはデリケートな問題だから外で言ってはダメ」というのが私には全くわからなかったことです。親には何度も怒られたのですが私は私の意見が正しいと思っていたので、「地球の環境的に考えたら人類は滅びた方がいいのでは」だとか、「日本はもっと欧米の政治を見習うべきだ」とか小学生の浅知恵を周りの大人たちに披露しまくっていたのです。これはイタい。周りの大人には私みたいな小学生がそんなことを言うのは親の教育のせいだと思われてしまうし、止めろと言っても何故駄目なのかいくら説明しても理解しない私は止めないしで、両親は相当頭が痛かっただろうと思います。

 

・・・だいぶ話が逸れて私の黒歴史を暴露してしましたが、とにかく私に限らず身近なことに目がいかずに責任を負うのは嫌な人間が考えることといえば自分の身の回りとは遠い事柄なのでは、と私は推測しています。

具体的にカラ松が何を考えているのかはやはり分かりませんが・・・彼のことを何度かバカと言ってましたし実際バカだとは思うのですが、知能指数自体は他の兄弟と対して変わらないと思うのでニートの暇な時間を自分に酔うことで潰せるくらいには頭は回るはずだと私は思います。なのでもしかしたら、カッコつけるのに最適な様々な洋楽だとかファッションだとか、厨二病的にグっとくる世界の慣用句だとか無駄に色々知ってるかもしれませんね。

 

 

 

以上で、ネタがなくなったのでカラ松語りを終わりにします。随分と自分語りの割合が多くなってしまいやたら長文になってしまいましたがここまで読んで頂いた方はありがとうございました。

 

でもおそ松さんって毎話毎話どんどん新しい情報ぶっこんでくるので、あと数日でこの長文語りが根底からぶっ壊されるかもしれないんですよね。特に次の話は一松事変、カラ松が一松にシリアスに「ずっと悩んでたんだ、お前は俺のどこがそんなに嫌いなんだろうって・・・」とか言い出すかもしれないんです。うわ、どうしよう、こんだけ語っといてそんなことになったら恥ずかしいにも程がある!!!いやまあ私は今を生きるオタクだから例えそんなことになっても全く気にしないぞ!!!でも記事は消すかもしれない!!!!!